Meiji Seitoku Kinen Gakkai(Meiji Japan Society)
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明治聖徳記念学会の創設 |
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明治天皇が崩御されると、その聖徳を後世に伝えてゆこうとする動向は学問分野からも湧き起こった。「是れ我等亦聖帝洪恩の萬一に酬い奉らんとする微衷、こゝに新に明治聖徳記念学學會なるものを組織し、内に在りては、深く日本の精神的文明を研究して能くその科學的の精緻透徹を致さんと期すると同時に、外に向ひては、その研究結果を内外文の紀要に公表して、彼れ外人をして我日本の眞相を會得せしむるに至るの一助たらしめん」という趣意のもと大正元年11月3日に発足、同9年3月6日には財団法人となった。当時の会則(第三條)に「主トシテ人文史的學問ノ新研究ニ照シテ本邦思想ノ特色ト我ガ建國精神ノ大本トヲ闡明シ、我カ國體ノ精華ト日本ノ文明トヲ内外ニ顕彰シ、以テ自ラ知ルニ努ムルト同時二、日本文明ノ眞相ヲ世界ノ學界ニ紹介シテ、彼我ノ精神的理會ニ資セムコトヲ期ス」と謳われ、日本文化の講究と国際普及を目的に刊行物の発行や講演会の開催などの事業を精力的に展開した。本会が加藤玄智博士を中心に40年の長期にわたり、多大な業績を残したことは周知の通りである。 | |
加藤玄智博士記念学会 |
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しかし残念ながら大東亜戦争も日毎に激しさを増し、ついに終戦後は自然休会となってしまった。当時印刷なかばで停頓していた『神道書籍目録』の続編の刊行事業を明治神宮で引き継ぐことになり、昭和28年に刊行された。加藤博士は40年5月8日逝去された。享年92歳であった。50年5月、加藤博士の十年祭を機に博士が生前育成された藤玄会を母胎として、生祠研究を推進するとともに、さらに進んで博士が念願とされた神道精神の普及徹底を期するため、加藤玄智博士記念学会が発足した。 | |
明治聖徳記念学会の再発足 |
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以来、博士の自由にして進歩的な神道研究方法を継承し、会員は努力して機関誌「神道研究紀要」を発刊してきたが、ここにひろく関連諸学を基礎として学際的日本、日本人、日本文化、神道を研究する学会へと一大飛躍発展を遂げるべく、往年の明治聖徳記念学会のように充実発展させるため、63年11月加藤玄智博士記念学会を先の明治聖徳記念学会と改称した。以来、本会は毎年の講演会のほか、研究例会および紀要雑誌を発行し、さらに広い視野に立って日本文化の究明に寄与すべく努めている。 | |
【資料1】明治聖徳記念学學會趣意書
我れ等夙に世界の諸宗教を科學的に攻明することを以て自ら任ずると同時に又日本宗教の研究に從事すること茲に年あり、深く思を神道及び神道と儒佛二教の交渉關係又は我が獨特なる國體武士道の由來等に潜むるに及び、是等日本の教學殊に神道が我が建國の大本國民思想の淵源を成せるもの多きを觀取しその科學的に精確なる研究が又現代國民の自覺忠君愛國心の涵養上一日も缺く可からざる所以を感ずること頗る痛切なるものあり、而て我邦に於ける是等教學研究の大勢は眞個に微々として振はざる識者の夙に認むる所、之に反して外人が日清日露の兩戰役以來我が戰勝の眞原因を探らんと欲して先づ武士道を研究し進みて神道の攻究に入り延きて佛教儒教等我國の諸有精神的文明の研鑚に從事する者日に多きを加ふる現状に接見するに至りては、事に斯學の研究に從ふ者、徒に苟苴偸安、臥榻の下晏然他人の鼾睡を容るゝに忍びざるものあり、窃に惟へらく、彼れ外人の日本研究に熱心なる固より不可なく、眞に我れに在りては他山の石に外ならずと雖も、畢竟日本を眞に能く理會し得るものは獨り日本人あるのみなれば、日本研究は日本人の手に由りて當然大成せられざるべからざるものなりと、矧や明治維新の開國と與に、俄然襲來せる外來思想の影響と、戰勝の餘勢、我が領土の擴大に伴へる交通往來の頻繁と、經濟事情の激變とは、現代思潮の産兒たる青年子女をして、知らず識らず我が建國思想の大本と、國民性の特色とを忘失せしめ、輕佻浮薄、歐米思想の皮相をのみ學びて、以てその物質的文明の餘毒に凶せられんとするに至れり、この秋に當りて、我が神道・武士道を初め、儒佛の二教等に至る迄、凡て我精神的文明を構成せるものゝ神髓と特色とに關し、科學的に精確なる研究を遂げ、その由りて來る所以とその眞價とを、現代の知識に照して考覈闡明することを得ば、今やその餘弊に苦みつゝある現代思想界の動揺を救治し、國民道徳の涵養上に亦陸海軍人の精神教育上にも資するもの決して鮮少ならざるべきは、我等の信じて疑はざる所、斯くしてその研究結果は、以て之を海外に紹介せば、之に由りて日本に關する外人の誤解を氷釋せしめ、彼我意志の疏通を計る上に於ても、亦多大の實効あること期して待つ可きなり、時偶々 明治聖帝の登遐に遇ひ奉り全國民を擧げて中々の至情禁ずる能はざるものあり、貴賤老少各その分に應じて爭ひて、哀悼の赤誠を捧ぐ、是れ我等亦聖帝洪恩の萬一に酬い奉らんとする微衷、こゝに新に明治聖徳記念学學會なるものを組織し、内に在りては、深く日本の精神的文明を研究して能くその科學的の精緻透徹を致さんと期すると同時に、外に向ひては、その研究結果を内外文の紀要に公表して、彼れ外人をして我日本の眞相を會得せしむるに至るの一助たらしめんことを切望して已まざる所以なり、我等固より淺學菲才、徒に任重くして前途の遠きを思ふ、偏に内外有志の協賛を仰ぐ。 大正元年十一月三日明治聖帝天長の大節に於て |
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【資料2】加藤玄智博士記念学会創立趣意書
宗教学の権威加藤玄智博士が逝去されてはやくも十年を経過し、本年五月にはその十年祭を斎行することになりました。これを記念して博士が生前育成された藤玄会を母胎として、生祠研究を推進するとともに、さらに進んで博士が念願とされた神道精神の普及徹底を期するため、ここに世話人会は発起して、加藤玄智博士記念学会を組織し、神道精神の拡充強化をはかることになりました。 われわれは、なによりも博士の自由にして進歩的な神道研究の姿勢に学び、宗教学ならびに関連諸学を背景としてわが神道の特性を発揮することによって、世界の文運に寄与したいと願われた博士の遺志を継承し、発展させることを目標とします。従って厳粛な方法による学術研究を推進して斯界に貢献するため、ひろく同学有志に訴えて、会員の研究を公開し、相互に切瑳してゆきたいと思います。このため、随時、研究会や講演会を開くとともに、それらの結果を機関誌「神道研究紀要」(年一回)に発表する予定であります。 以上、本会の発足にあたり、本会の趣旨を述べて、ご賛同とご指導を賜りたく、ここにごあいさつを申し上げる次第でございます。 昭和五十年五月 |
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【資料3】明治聖徳記念學會發會趣意書
加藤玄智博士記念學會は、昭和五十年五月宗教學の權威にして神道學研究に、また神社界にも大きな貢獻をされた加藤玄智博士の十年祭を機に、博士が生前育成された藤玄會を母胎として本邦生祀の研究を推進するとともに、さらに進んで博士が念願された神道精神の普及徹底を期することを目的として創立した。爾來博士の自由にして進歩的な神道研究方法を繼承し、会員は努力して機関誌「神道研究紀要」を發刊したが、ここにひろく關連諸學を基礎として學問的に日本、日本人、日本文化、神道を研究する學會へと一大飛躍發展を遂げるべく、博士が多年關係され、その實際的運營にも當たられた往年の明治聖徳記念學會の名稱を襲ひ、その會の使命とし理想としたところをも積極的に繼承發展せんと計畫した。先の明治聖徳記念學會は、明治天皇登遐のあと偉大なる天皇の御洪恩の萬分の一にも酬ひ奉らんとして、日本の精神文明を廣く深く研究、その科學的透徹を計るとともにその研究成果を内外文にて廣く公表せんとして大正元年十一月三日設立、以後その學會に研究所をも設け神道學、哲學、美學、文學、史學、社會學、法學、教育學等の各分野より精緻にして畫期的な成果を擧げて次々と發表、内外より高く評価されてゐた。しかるに大東亜戰爭の敗北とともにその運營も困難となり自づと休止の状況に陥つた。いま、日本が大きく發展し、改めて日本、日本人、日本文化、神道等について内外より問われるとき、それに應へるには廣い學問分野よりの綜合的研究が要求されるが、先の明治聖徳記念學會の理想としたところもそれであり、ここに加藤玄智博士記念學會を充実發展させるため、その名稱に變更、さらにひろい視野に立つて日本文化を究明し、その成果を内外に公表、世界の文運に寄與せんとするものである。 昭和六十三年十一月 |